大学生になると美人が増えるのはなぜか

 

こんにちは! noriです!

今回は大学生になると美人が増えるのはなぜか?についてです。

 

もうすぐ大学一年生も終わります。

私服や一限に遅刻など、様々なことがありましたが、何とかやり切れました。

今回はそんな私が大学生になって直面した、最大の疑問について書きます。

 

「大学生になると美人が増えるのはなぜか?」 です!

 

思いついた理由としては二つ。

 

①私服、化粧などの登場

②そもそも美人しか目に入っていない  です。

 

①私服、化粧などの登場

 

高校生から大学生への過程において、一番の変化ともいえるのが私服と化粧です。

0から100に変化するわけですから、そりゃあ可愛い人が増えます。

しかも、これらはより良く改善していくことが可能です。

お互い指摘しあうことで、時間経過とともにより可愛さが増していくでしょう。

 

相手の良いところを見て、改善していく。

これは化粧や服に限らず、すべてのことにいえることだと思います。

相手のいいとこ探しって大事やなぁ~!って思いました。

 

②そもそも美人しか目に入らない

 

そもそも美人しか目に入ってないという仮説。

私はこのことを「隣の芝は青い理論」と呼んでいます。

 

私が通っていた高校には姉妹校がありました。

そのため、学校行事で他校の生徒とよく一緒になることが多く、話す機会もまた、多かったのです。

そこでよく話題になっていたのは、

 

「そっちの高校の方が美人が多い」  でした。

 

学校行事という短時間の中で、相手校の方が美人が多いと思ってしまう。

しかし、相手校の人も自校の方が美人が多いと思ってしまう。

 

これは、短時間の中では美人にしか目に行かないことを意味しています。

 

学校生活というものを通して、そうでない人との関わりも増えて行き、実質的な高校のイメージが作られていくのかな~と思いました。

 

大学というのは、自由で流動的です。

クラスというものも存在しておらず、授業も自由に選べることが多いです。

しかも生徒数が多いため、美人が多い確率も高い。

そのため、美人との遭遇率も高いのです。

美人に目を奪われるという経験を積んだ結果、

美人が多いというイメージが出来上がるのかな?と思いました。

 

相手のいいところを模倣して、他人の目を奪えるような存在になりたいな~と思いました。

 

僕は春休み初日に何を書いてるんだろうか。

勉強しよ笑

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芸術と私達の価値

こんにちは!Noriです!

今回は芸術の価値について書こうと思います。

 

先日、オーケストラを見に行きました。

演奏予定曲はチャイコフスキー作曲の23番と64番でした。

予めどのような曲であるのか調べてみたところ、

23番は全盛期の曲で、64番は晩年期の曲でチャイコフスキー自身も酷評するほどの楽曲のようでした。

しかし、私自身は64番の方が壮大な雰囲気で好感を持ったのです。

つまり、作曲者が良い出来であると思っていても、観客が良いと感じるわけではない。

音楽や絵画などの芸術は結局観客がどう思うかで価値が決まってしまうのだな。

と思ったのです。

そして、これによく似た話を思い出しました。

 

マルセル・デュシャンの”泉”の話と、ジョン・ケージの”4分33秒”の話です。

デュシャンはトイレの便器というレディ・メイド品にに”泉”という名前を付けて展覧会に出展しようとしましたが、不道徳で卑俗であると断られてしまいました。

ケージの"4分33秒"という曲は、第一楽章から第三楽章まで全て休みです。

つまり、演奏者は舞台に出て何もせず、ただ一定の時間が過ぎると退場する。

それだけの曲なのです。

 

しかし、評価されるのです。

”泉”はただ貰ってきた便器にサインをしただけ。

"4分33秒"は何もせず座っておくだけ。

何故でしょうか??

 

彼らは私たちに突き付けたのです。

アートとはその作品を起点にして鑑賞者の中で完成すものであることを。

作者がどのような意図で作品を作ったとしても、結局は鑑賞者次第であることを。

作者の意図も作品も、結局は私たちのフィルターで曲げられます。

私たちの捉え方次第なのです。

 

そして、この話は私達自身にも当てはまるのでは?と思いました。

私達学生はでテストだけで評価されます。

どれほど勉強を頑張り努力しても、

過去問を解いたり、まとめノートを作るなどの工夫をしても、

結局はテストという先生のフィルターの中でしか評価されないのです。

 

自分は他人の中でしか生きることが出来ないのかな?? と思い、悲観にくれました。

結果を残さないと人からは評価されない。

そう考えると焦りと不安に溺れそうになります。

 

なんて合理的で無機質なんだと思いますが、自分が逆の立場ならばその方法が一番手軽で簡単だと考えてしまうので否定ができないのです。

 

現実に向き合いながら、少しでも頑張ろうと決意を新たにしたコンサートでした。

 

2018年11月23日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

モテる男は奢らない!(私が奢らないわけ)

モテる男は奢らない!

(”奢らない”というか”奢れない”のですが)

私も恋愛経験が豊富というわけではないが、今回はこのことについて書きます。

 

結論から言う。

本当に好きな人や、好意を持った人には奢ろうとする。そして、奢らせない。

多くの人がそうだと思う。

好きな人には奢ろうとするし、奢らせたくないだろう。

両想いであれば、私が「奢るよ~笑」といっても、

「え~!いや、いいよ~!笑」と返すのが普通だ。

私の数少ない恋愛経験から言っても、奢ったことはほとんどない。

「これだけでも、、、」といいポップコーン代を出したぐらいだ。

(しかも、翌日の学校で返してきた)

好意のある相手に奢ってもらうことは抵抗があるだろう。

そして、相手が本当に自分のことを思ってくれるのであれば、奢らせてもらえない。

(相手のプライドが高いだけの可能性もあるが)

 

逆に考えてみよう。

 

「奢って!」と言う人はまず自分に好意を持つことはあり得ない。

好きでない相手に奢ってもらってもありがとうと言うぐらいだろう。

抵抗がない。

だって相手のことなんてどうでもいいから。

自分の得になる方に動くだけだ。

 

つまり、奢らされるかどうかで相手の気持ちが最低限わかるのである。

 

奢らされることに全く価値はない。

 

私は奢らされた場合、時間もお金も無駄にしたと考える。

(ただし、相手が誕生日であるとか,自分から誘ったなど特別な場合は除く)

相手の良し悪しに関係なく、お金も、時間も等しく過ぎてゆく。

「奢って!」と言う女子は、どれほど自分にプライドがあるのか。

見ていて痛々しい。

鏡をプレゼントである。

 

まとめると、

本当に好きであれば、奢ることはない。

先の無い相手には奢らされる。

 

以上のことからわかるのは、奢ることが無いのが一番良い状態であることだ。

 

私は絶対奢らない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜ僕たちは多くの教科を学ぶのか

こんばんは! noriです。

今回は なぜ多くの教科を学ぶか について書きます。

授業の際 こんなことを学んで何の役に立つの?? と思ったことはありますか?

僕はよくありました。 

歴史を知ってどうなる?? 数学をしてどうなる??

そんなことばかり言ってました。

しかし、夢のために勉強をせざるをえず、私は勉強を始めたのです。

そして様々な知識と出会い、最終的に答えにたどり着いた。

何故多くの教科を学ぶか? それは一つの発見には多くの材料が必要だから。

 

気付きのきっかけは environment(環境)  という単語との出会いだ。

en-viron-ment と単語は分解することが出来る。

en は強調 vironは神 mant 精神 

つまり environment の本当の意味は 神の精神、神の意志 なのである。 

このことからわかるのは、environment=神の意志=環境=自然 ということであり、

昔の人は自分たちの周りの環境、つまり自然を神の意志と考えていたことがわかる。

 

このことに気が付くための背景知識は2つある。

アニミズム と 産業革命 だ。

 

アニミズムとは 物には霊が宿っているという考えだ。

大昔から人は山や太陽と言った自然を神として信仰した。

たとえば天照大神(アマテラス)は太陽の神だ。

雨ごいもその一種である。 

幼少の頃、雷が鳴るとおなかを隠せとよく言われなかっただろうか?

これは自然を神と見なしているからこそである。

environment=自然=神の意志 となる理由だ。

 

次は 産業革命 である。

産業革命は神という存在が消える契機となった。

蒸気機関が台頭し、人力では無くなった。

産業の発達は化学の発達を意味する。

化学の発達は、今まで人が神と考えていた物の本当の姿を暴いた。

神の怒りであった雷は プラスとマイナスで考えられた。

アマテラスとしての太陽は燃える巨大な岩と見なされるようになった。

 

それだけではない。

雷は人に電気としてコントロールされるようになった。電球の発明だ。

産業革命による化学の発達により、神は死んだ。

自然は人間の下に置かれるようになった。

今の私たちにはenvironmentという単語は、環境という意味しかない。

神の意志という意味は歴史の流れに飲み込まれたのである。

 

話を整理する。

神の意志=自然=environment となった理由は、

昔の人は自然を神と考えたから。

environmentに自然、環境という意味しか無いようになったのは

産業革命による化学の発展により、神という概念が人々の中で薄れたためである。

 

このことに気が付くためには多くの知識が必要ではないだろうか??

アニミズムは                 日本史

産業革命は                  世界史

人々の考え方の変化は             倫理、現代文

単語は                    英語

学んだことを論理的に組み合わせ答えを導くのは 数学 

雷が電気ということは常識ではあるが      理科      である。

 

たったこれだけのことに気づくためにもこれほどの知識が必要なのである。

これから新たに発明していこうと思えば、より広く、深い知識が必要であろう。

 

私たちが多くの教科を学ぶ理由。

それは過去を踏襲し未来を創るためだ。

グローバル化地球温暖化少子高齢化、、、多くの問題が存在している。

これらの問題を多角的な面から見つめ、解決策を出す必要がある。

そのためにも私たちは学ばなければならない。

 

より多くのことを学び、より良い未来を創ろう。