芸術と私達の価値
こんにちは!Noriです!
今回は芸術の価値について書こうと思います。
先日、オーケストラを見に行きました。
演奏予定曲はチャイコフスキー作曲の23番と64番でした。
予めどのような曲であるのか調べてみたところ、
23番は全盛期の曲で、64番は晩年期の曲でチャイコフスキー自身も酷評するほどの楽曲のようでした。
しかし、私自身は64番の方が壮大な雰囲気で好感を持ったのです。
つまり、作曲者が良い出来であると思っていても、観客が良いと感じるわけではない。
音楽や絵画などの芸術は結局観客がどう思うかで価値が決まってしまうのだな。
と思ったのです。
そして、これによく似た話を思い出しました。
マルセル・デュシャンの”泉”の話と、ジョン・ケージの”4分33秒”の話です。
デュシャンはトイレの便器というレディ・メイド品にに”泉”という名前を付けて展覧会に出展しようとしましたが、不道徳で卑俗であると断られてしまいました。
ケージの"4分33秒"という曲は、第一楽章から第三楽章まで全て休みです。
つまり、演奏者は舞台に出て何もせず、ただ一定の時間が過ぎると退場する。
それだけの曲なのです。
しかし、評価されるのです。
”泉”はただ貰ってきた便器にサインをしただけ。
"4分33秒"は何もせず座っておくだけ。
何故でしょうか??
彼らは私たちに突き付けたのです。
アートとはその作品を起点にして鑑賞者の中で完成すものであることを。
作者がどのような意図で作品を作ったとしても、結局は鑑賞者次第であることを。
作者の意図も作品も、結局は私たちのフィルターで曲げられます。
私たちの捉え方次第なのです。
そして、この話は私達自身にも当てはまるのでは?と思いました。
私達学生はでテストだけで評価されます。
どれほど勉強を頑張り努力しても、
過去問を解いたり、まとめノートを作るなどの工夫をしても、
結局はテストという先生のフィルターの中でしか評価されないのです。
自分は他人の中でしか生きることが出来ないのかな?? と思い、悲観にくれました。
結果を残さないと人からは評価されない。
そう考えると焦りと不安に溺れそうになります。
なんて合理的で無機質なんだと思いますが、自分が逆の立場ならばその方法が一番手軽で簡単だと考えてしまうので否定ができないのです。
現実に向き合いながら、少しでも頑張ろうと決意を新たにしたコンサートでした。
2018年11月23日